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薔薇戦争その④

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薔薇戦争その④
画像出典
https://www.youtube.com/watch?v=8usSAMpuSVI
Feature History - War of the Roses
※引用者の薔薇戦争の理解のために書いていますm(__)m
訳は基本ありません、引用者が疑問に思った単語のみ意味を辞書より転記しています
ウィキなどの引用の太字、漢数字の算用数字への変更は引用者によるものです
断りなく追記することがあります
参考図書:薔薇戦争新史 トレヴァー・ロイル著/陶山昇平訳 彩流社




<前回のあらすじ>
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まちがえたこっち
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<前回のあらすじ終わり>
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She continued to push York out of the picture removing him from the frontlines and instead to Ireland where he could not play with any role in the proceeding of the court.(※Sheはマーガレット王妃)

out of the picture (1)筋違いの,おかど違いの,場違いの. (2)事実を知る立場にない[とかかわりがない] (3)注目されていない(@goo辞書(小学館ランダムハウス英和大辞典))

「イングランド入りしてからのマーガレット(王妃)は、宮廷を牛耳る和平派の首領であるサフォーク公と親しくなり、フランスとの和平を推進しつつ国内で専制権力を振るう彼の政策を、夫と共に後押しした。サフォーク公を始め和平派は2人の信任を背景に、グロスター公ハンフリー、ヨーク公リチャードら抗戦派を宮廷から遠ざけ、グロスター公(ハンフリー)を捕らえ獄死に追いやった」(@ウィキ、灰色文字は引用者)

「ヘンリー6世の推定相続人であるヨーク公は宮廷から締め出され、1445年にノルマンディー総督を解任され、1447年にアイルランド総督へ転出された。」(@ウィキ)

「ヨーク公リチャードはアイルランドに転任」「左遷とは言えないが、対フランス戦やイングランドの政治の中心から引き離された閑職ではある」(@「薔薇戦争とは何だったのか(1) - ボフォート家」

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She instead gave York’s former post to Somerset who one could charitably say was not that good.
The mounting failures mixed with excessive corruption left them widely unpopular by 1450, and what of the man meant to actually be running the show? Henry was viewed as beyond incompetent.(容赦ない><)

charitably:【副】慈悲深く、思いやりを持って、寛大に(@英辞郎)
not that great:そんな大したものではない、言うほどのこともない(@英辞郎)
that:(否定文で)あまり、それほど
mounting:増えている、悪化している
crony:《しばしばけなして》(長年の)親友、旧友
corruption:不正行為;賄賂、収賄、買収、汚職。腐敗、堕落
what of ~:〈話〉~はどうした?、~はどうなのか(@英辞郎)
mean:((通例受身)) 〈人を〉(…になるように)予定[計画]する,運命づける;〈物を〉(…であるように)意図する((for ...;to be))(@goo辞書(小学館ランダムハウス英和大辞典))
run the show:事を取り仕切る,切り回す(@goo辞書(小学館ランダムハウス英和大辞典))
beyond excited, serious, angry, etc.:(informal) extremely excited, serious, angry, etc.(@Cambridge Dictionary(Online))
incompetent:能力のない、無能な、役に立たない、不適任の。(病気などで)理解力を喪失した;(年齢・病気などで)無資格の。無能な人、不適任者;無資格者

「サマセット公は戦争指導のためヨーク公の後任のノルマンディー総督に任じられフランスへ赴き、サフォーク公は支持者を増やす一方で宮廷の評議会で大貴族などを排除して専制体制に走った結果、ヨーク公や多くの貴族を敵に回すことになった。」(@ウィキ)

サマセット公の(百年戦争での)軽率な行動(※)がフランス国王シャルル7世に開戦の口実を提供し、ノルマンディーからイングランド勢力を駆逐する作戦の引き金になった)
→「(イングランド軍は)資金不足のため戦闘能力は低下し、深刻な人材不足にもサマセットは打つ手がなかった。サマセットはヨーク公のような経験豊かな軍人ではなく、それは防衛軍の布陣と采配ぶりからも窺えた」
→(シャルル7世は貴族層だけに頼るのではなく自身に忠誠を誓う王軍を編成し強大な敵となっていた(フランス軍には強力な火力の存在(大砲)があった)。現地の住民ももはやイングランドの支配を望んでいなかった(ベッドフォード公の時代には現地経済の活性化に寄与していたが))
→(フォルミニーの敗戦、カーン陥落、ファレーズとシェルブールが敵(フランス)の手に渡る)
→「ヘンリー5世の帝国は、今やカレーとガスコーニュの領地を残すだけとなっていた」
→(イングランド人には失望が広がり犯人捜しが始まった)「イングランド人はフランス王位を勝ち取ったヘンリー5世の偉業を誇りとしており、やがて悪の首魁として(宮廷を牛耳る)サフォークを名指しするようになった」
(☜ここからサマセットからサフォークの話に変っている(注:サフォークの交わしたトゥール条約がイングランド的にアレとはいえ戦争でミスをしたのはサマセット(だがサマセットは王族)))
→(議会は反サフォークの動きをとり、サフォークは反逆罪汚職の罪で起訴された)
→(ヘンリー6世は大権を行使し、反逆罪の容疑を認めず、しかし二次的な告発事実(汚職)について有責とし国外追放とした)
→(しかしサフォークは追放の途でドーヴァー海峡を航行中に小船団に拿捕され捕らえられ殺された(1450年))(@薔薇戦争新史「第9章 温和で正直な男」抜粋要約(この本ではサフォーク殺害を命じたのがヨーク公である可能性を指摘している))

(※)
(サマセット公はブルーニュの問題に疎く、またトゥールの休戦合意(1444年)を長期的和平と考えていたようである)
(ブルターニュ公爵フランソワ1世の弟ジル(親英派でヘンリー6世の幼馴染)がシャルル7世の命で兄公爵(フランス寄り)の手で逮捕される→サマセットはブルターニュとの境界の要衝フジェールへの攻撃を許可する(1449年))
→(フジェール攻撃は成功するが、サマセット公は「ブルターニュ公はイングランドの封臣」という建前にこだわってジル解放の交渉でシャルル7世の交渉参加を拒み交渉を失敗させた)(@薔薇戦争新史「第9章 温和で正直な男」抜粋要約)

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York would return and prematurely march on London demanding for Somerset’s imprisonment.
York was imprisoned until he would finally humble himself before the court and swear loyalty to Henry in 1453.

prematurely:【副】時期を早めて、時期尚早に(@英辞郎)
humble oneself:謙虚になる、謙遜する、へりくだる
humble oneself:卑下する(@goo辞書(小学館ランダムハウス英和大辞典))

(1450年ジャック・ケードの民衆反乱が発生)→
「アイルランドに居たヨーク公リチャードは手勢を率いて9月にロンドンに入り、推定相続人の地位(1447年のハンフリーの死後、彼(ヨーク公リチャード)が王位の推定相続人のはずだが、そのような扱いを受けていなかった)と改革を要求」→
「ロンドンでは民衆が暴動を起こし、サマセット公はロンドン塔に逃れ、議会ではヨーク派が議長となった。ヨーク公は平民院での支持は高かったが、大貴族の支持は多くはなく、いくつかの改革を約束させたものの、サマセット公の失脚は果たせなかった。」→(中略)→
「1451年末に、王妃マーガレットはカレーに居たサマセット公を宮廷に呼び戻し、イングランド王軍司令官に任命させた。」→
「これに憤慨したヨーク公は、1452年3月に寵臣の追放と自らの王位継承者の地位の確立を要求して挙兵したが、(民衆の蜂起を当てにして、大貴族に根回をしていなかったようで)大貴族や民衆でこれに応じる者は少なく、王軍との睨み合いの中で妥協が成立し、ヨーク公は二度と武器をもって王に反抗しないことを公衆の前で誓わされて解放された。」(※引用者が註釈を本文に入れています)(@「薔薇戦争とは何だったのか(1) - ボフォート家」(http://reasonable.sakura.ne.jp/history/bl/baranani.html))

(1452年3月ヨーク公はブラックヒースの国王陣営に乗り込んだ)「ヨーク公は自身の主張を繰り返し述べ立て、激しい応酬が繰り広げられたが、状況を変えることはできなかった。国王陣営にあってサマセットが我が物顔で自由に振る舞っているのに対し、わずか四十名の家臣だけを伴いブラックヒースにいるヨーク公は、囚われの身も同然だった。おまけに、まるで逮捕されているかの如くヨーク公はロンドンへ帰還する国王一行の前駆を務めることを強いられ、さらにセント・ポール寺院の主祭壇の前でヘンリーへの忠誠を宣誓させられたのだった。セント・ポールの宣誓で、ヨーク公は国王の命令に従い、二度と国王の近臣に鉄槌を下すべく挙兵することはない旨の誓いを立てた。大勢の立会人の前で宣誓した-これも服従の証しといえた-後、彼はラドロー城への帰還を許されたが、これは再度の宮廷からの追放劇とさえ呼べた。」(@薔薇戦争新史(p205-206))

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Civil discontent grew to uncontrollable levels and those responsible would have to be held as such

discontent:不満、不平;不平[不満]のもと。(社会的・政治的な)不満分子
hold:《+目+(to be)補》~を(~と)みなす、~と考えている
... as such:(@goo辞書(小学館 プログレッシブ英和中辞典))
1 …そのもの,…自体;…のすべて(について)
I didn't object to flextime as such. I just wanted to ensure job continuity.
フレックスタイム自体に反対したのではなく,仕事がとぎれないことを望んだだけだ
2 厳密な意味で;〔否定文で〕((略式))…というほどのもの(ではない)
That isn't a mansion as such. It's just a large home.<>brあれは大邸宅などではなく,ただの大きな家だ

(試訳)
市民の不満は制御不可能なレベルにまで増大した。責任を負うべき人々が責任を負うべきだとみなされねばならなかったのだろう。

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York and his Yorkist faction strived for Margaret Somerset and their Lancaster accomplices’ power to be revoked and their influence removed.

faction:(政党内などの)派閥、党派。派閥争い、党内紛争
strive for ~:~を得ようと懸命に努力する、奮闘する。~を求めて争う、戦う
accomplice:共犯者;従犯者
revoke:(協定など)を取り消す、無効にする、破棄する、廃止する

(試訳)
ヨーク公そしてヨーク派は、マーガレット王妃、サマセット公およびランカスター派の共犯の者の権力を無効にしその影響を排除することを求め戦った。

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That opportunity would be offered to them later the same year.

(ヘンリー6世が最初に精神錯乱に陥った1453年(@ウィキ)のことと思われる)

(1453年ヘンリー6世は国内巡幸する。1453年7月に)
「ヘンリーを待ち受けていたのは、南ウェールズの結婚にからむ土地の領有をめぐるウォリック伯とサマセット公の揉め事だった。ウォリック伯の他界した義父(第13代ウォリック伯(リチャード・ド・ビーチャム)。訴追派貴族でリチャード2世に追放されヘンリー4世に釈放された第12代ウォリック伯の息子。ヘンリー6世の教育係)は、リチャード・ビーチャムの寡婦イザベル・デスペンサーと結婚しており、彼女の死後、その遺領はウォリック伯一門とウスター伯一門の間で分割されていた。ヘンリーは、理由ははっきりしないものの、デスペンサーの遺領をサマセットの管理下に置いたが、これはヘンリーの治世に悲惨な結末をもたらすことになった。」
→(ウォリックは自分の土地を手放すまいと武力を集結させる)→
「今や武力紛争は不可避とみられ、さらに、イングランド屈指の勢力を誇るネヴィル家とパーシー家の争いが北方で勃発したとの報も届き、緊張は否応なく高まった。両家はスコットランド国境沿いに領地を持ち、婚姻によって勢力を拡大していた。初代ウェスモランド伯レイフ(※ラルフ(@ウィキ))・ネヴィルは、ジョン・オブ・ゴーントの娘ジョアン・ボーフォートと再婚し、二人の息子のリチャードはソールズベリー伯領の相続人アリス・モンタギューと結婚し、ソールズベリー伯となっていた(この伯位の保有者トマス・モンタギューは、一四二八年にフランスで戦死していた)。その息子で同名のリチャードは、ヘンリー六世の元傅育役(※第13代ウォリック伯リチャード・ド・ビーチャム)の娘アン・ビーチャムと結婚し、この結婚により、リチャードは義父の有するウォリック伯位を得ることになった。彼は歴史上「国王擁立者ウォリック(ウォリック・ザ・キングメーカー)」として名高い。彼の父の妹セシリーはヨーク公に嫁いだため、ヨーク派の支持者となるのは自然な成り行きといえたが、ヨーク公と国王の衝突が見られ始めた頃には、若かったウォリックはまだ中立を貫いていた。ヘンリーの頑迷な姿勢、とりわけサマセットへの盲信がすべてを変えたのだった。」(@薔薇戦争新史(p.210-211)、灰色文字は引用者)
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この家系図からわかることなど
・ウォリック伯リチャード・ネヴィル(キングメーカー)は、ジョン・オブ・ゴーント経由でエドワード3世の玄孫。母方曽祖父が王暗殺計画に関与して処刑、父方祖父(初代ウェストモランド伯ラルフ・ネヴィル)が王家に従い(親戚なのに)パーシー家の反乱鎮圧→王家が代替わりして娘婿の反乱のために王家に疎まれ反乱分子の子を娘婿にする、という経歴を持ち、この先祖の行動はウォリック伯の薔薇戦争における行動のひな型になっているように思われる。
・ウォリック伯の妻アン・ビーチャムは、エドマンド経由でエドワード3世の玄孫で、初代マーチ伯ロジャー・モーティマー(王妃と結託してエドワード2世を廃し自分の擁立したエドワード3世に処刑された)の玄孫。王家に政変を企て失敗した母方祖父、王を告発しその後王から終身刑を受ける父方祖父、王家に忠実でパーシー家の反乱も鎮圧しヘンリー5世側近でヘンリー6世教育係も務めた父を持つ。ウォリック伯がヨーク派とランカスター派を自在に行き来できるのも妻の力があると思われる
・ネヴィル家とパーシー家は仇敵なのだが、その原因を作った人物の1人がウォリック伯の祖父(初代ウェストモランド伯ラルフ・ネヴィル)である(以前彼を中心にした家系図を示した)

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Henry’s failures led to defeat in the Hundred years’ war and his rational reaction was to have an absolute mental breakdown.

mental breakdown:神経衰弱、ノイローゼ◆重度のストレス、ショック、悲しみ、不安、失望、自信喪失、不眠症などによって引き起こされる精神疾患(心の病気)[表現パターン]nervous [mental] breakdown(@英辞郎)

(サマセット公が対仏攻撃に失敗(1449年)、サフォーク公も英仏海峡で待ち伏せされて暗殺され(1450年)、ヘンリー5世の勝ち取った全ての州をフランス軍が奪還した(1450年))(@ウィキ)
「1453年8月、ヘンリー6世が重大な神経衰弱に陥った。恐らくガスコーニュでのカスティヨンの戦い(※この戦いで百年戦争はフランスの勝利に終わった)の敗北の知らせで発病したのであろうが、話す事も部屋から部屋へ1人で移動する事もできなくなってしまった」(@ウィキ(※は引用者))
「1453年8月にヘンリー6世は最初の発作に見舞われて精神錯乱に陥り、王子(エドワード・オブ・ウェストミンスター)の誕生さえ認識できない有様となった。」(@ウィキ)
→薔薇戦争その⑤に続く

by arare39 | 2018-10-13 23:48 | 歴史 | Comments(0)

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